Ica

ヨハン

ぴくしぶにあげたヨハンの話を読み返すともしかしてわたしが書きたいヨハンの内面の掘り下げって全部かいちゃってない?ねえねえという気持ちになるミステリー。イエス!ミステリーイエス!つまり最近は羅叉とヨハンの関係についての掘り下げばっかり行っている気がするけどこんなに書いてるなら仕方ないと思わなくもない。あ、でもなんかこのときのわたし頑張ったんだな…と今は思う。ただこれ、乃木の小説に感化されて書いたやつだからなあ……でもぴくしぶ登録?めんどくさい(´・∀・`)な人も大勢いるであろうことは知っている…そんなあなたのためにブログにちょこんとおいて見ることにしたよ今更だけど!まあそれでも乃木の見てないとよくわからないところが多いであろうry

8巻のアジアンの夢の中の死神や何の特徴もない男も、自律的活動と思考を持っていたに違いないぜヒャッフウなそういうかんじで、つまりヨハンのはなしです。8巻みたいに急に自分の世界にはいっちゃう。なにそれこわい。もしそんなにいや別に訳わかんなくもないよって人がいたらいつかひっそりログとかに置いてあるかもしれない…限りなく低い可能性である…

やることはいつも同じだ。係員の制服を着て、慣れ親しんだ重さの教導鞭をベルトのホルダーにさす。

係員であるおれたちは武装することが常とされている。ここの囚人たちは一癖も二癖もあるのだ。考えている。彼らは常に考えて行動している。思考しているのだ。驚くべきことだな、と思った。何故そう思うのかは分からなかった。そんなことを唐突に思いついた自分が愚かに思えた。

このアサイラムには係員舎から出ると十字路があり、真っすぐにいくと独房が見える。独房は一号房から八房号までが存在していて、女子と男子は分けられている。閉鎖された空間では何が起こるか分からないからだ。浴場も男子と女子では別個に用意されている。男子よりも入浴は女子のほうが多くしてある。うるさいからだ。三日間をあけると反発もひどい。

十字路を右に曲がると医務室や保護房、閉鎖房が存在しており、あの場所はまさしく閉鎖されている。あそこでは何も変わらない。所属や管轄の関係によりあそこで働いたことはまだないが、ぬるま湯のような場所だ。そのくせ、掃除や維持にやたらと手間がかかる。

左をゆけば会堂が存在しており、囚人たちの食事はここで行われる。奥に、作業場と運動場。どの場所でも係員は常にあらねばならない。時に激しく叱責し、たしなめることも大事であるが、ある程度の囚人への自由も保障している。あまりに抑圧的であるより、少しくらいの自由はあったほうがいい──というが、寧ろその自由はあまりに狭すぎるために彼らに考えることを与えてしまっているのではないだろうか。

「考えなしのブァカもかんがえものだが、お前のように考えつくしちまう奴ってのも厄介だねえぇぇぇ……お前は賢い子だ。ただ賢過ぎるのもいけない。ブワァッカすぎるのも駄目だ、人間、ホドホドが一番なんだよ」

呼びだされる、という程ではない。時折この所長室にいる、ことになっている。おれ以外にはそんなことはないのだろうか。このアサイラムの所長、ゼックス・ツィッファー、数字の6がいう事を信じるならば──あくまで信じるならばだ──このアサイラム及びこのアサイラムの属する物、人間、すべてが彼の所有物であり、そして愛すべき彼自身であるらしいが、その中でも自分はお気に入りの方らしい。愛というものを理解することが出来なくなるくらい、そして彼の愛を痛感しなければならないくらい、丹念に丁寧に眼球をなぶられてそう言われた時は鳥肌がたった。喜びからではない。

髪の毛を掴まれ上を向かせられる。それでも表情ひとつ変えないおれなど、面白みもなんともないだろう。放っておいてくれればいいのに。

「お前は強いよ、×××。だから俺はお前が好きなんだろうねえ。強くて美しいものはとくに愛でられるべきだ。つまり奪われるべきなんだよ、それこそが愛だ。愛とは与えるものじゃない、奪うものだ。それこそが真の愛であり、世界の真実じゃないかねぇ。だから、お前の眼球を抉りだして、関節という関節をスカッと外して、飼ってやりたいと思うのだけどね。ここじゃなければ。しかしそのなぁんの特徴もありやしない顔だけはいかんともしがたいねぇ。お前のクソつまらない顔をかわいらしく彩るのはその無表情が歪んだ時だけだ。みっともなく、俺の前でだけ壊れてしまえばいいのにねぇ」

ここじゃないなら、どこでならいいのだろう。

おれは弱い、惰弱だ。脆弱で、曲がっていて、真っすぐではあたわぬ、己を律しようとして律することもできない莫迦者だ。判断して、切り捨てて、切り捨てた命に泣いてやることもできない、いいやしないのだ。泣いたところで何も変わらぬ。死者のためにできることなど、おれたちにはない。そもそも、存在すらしないのだ。ただ死者の名誉を、かれらがなそうとしたことをその意志を引き継ぐだけだ。引き継ぎたいだけだ。そんなエゴに涙など添えるつもりはなかった。ただ、笑いを彼らの死体の上に埋めるつもりはもっとなかった。皮肉や嘲笑以外のそれで笑うことがそもそもおれには殆どない。おれは捻くれていて、性根も曲がっていて、誰かを傷つけて不毛の上にまたばらばらと肉の塊を積んでいくことしか出来ない砂漠よりも酷い枯れた土地だ。

それでも守りたいものがあった。

かつん、一回だけ音がなった。その音にひきずられて意識をもどす。足音だ。

散々なぶられて、ほんの少し荒くなった息をかくして廊下に出た。《指導》とは違う。あれは所長の、呼吸をするのと同じくらいの何気ない所作だ。何せ、《指導》されるような失態をおれは極めて犯さない。どこかの、誰かのように。そう考えて、ふと先程の足音がみしった顔の持ち主のものであると気づいた。否、気づいていた。荒々しいが、音の響くこのアサイラムであっても足音は殆どせず、独特の気配は用心深い野生の猛獣の様だ。それでいて純粋で、混じりけがない。矛盾はそこには存在せず、男は囚人たちに《死神》と呼ばれている。太い眉は微動だにせず、眉尻と頬と顎にかかる傷跡はその男がどれだけ凄惨な路程の上であの場所にたどりついたことを証明しているようだ。挑むように、おれが敵であるかを確認するかのように剣を抱えてこちらを睨みつけていたあの男は、同胞を守るのに必死だった。

哀れだった。

寄り添い合っていた。小さな体で。

彼らは守られ、保護されるべきであった。

愛を与えられてしかるべきであった。

それでもおれは、嫉妬した。ねたんだ。深い絆のある彼らを。あの人に愛される彼らを。みっともなく、隠しようもなく、物欲しげに見ていた。

前に進もうとしたら、息が出来なくなるくらい押しつぶされた胸が痛んだ。けほりと一度だけみっともない呼吸をした。死神は振り向かなかった。

人の悪意を受け取ることは慣れている。いつからかは知らないが、このアサイラムにおいておれは様々な人間に恨まれているらしい。というよりも、ここでは逆の方が少ない。係員はそれぞれ、まっとうな場で出会うならば、まともな人間の感覚を持っているならば、出会っただけで裸足で逃げだすだろう類の奴ばかりだ。係員は結構な人数がいる。それぞれ担当部署が分けられており、その役割は時折だがローテーションするが、基本的な部署は殆ど変わらない筈だ。閉鎖房の係員が一般房の係員になったという話は聞いたことがない。これからあるのかもしれないが。

所長と秘書、副所長はまた別の次元の存在で、特に所長はこのアサイラムそのものだ。あの白い肌に亀裂のように、クレバスのように奔る笑みを美しいなどと思うものはいるのだろうか。

第三作業場と一号房を受け持っているおれの仕事にはそれほどトラブルは少ない。四号房に新しく入った新入りのせいで、第二作業場を担当しているあの男は少しばかり荒れているようだが。

第三作業場の作業内容な陶工で、囚人たちには評判がいい。土をこねていればいいし、自分なりにその中で楽しむこともできる。トラブルが起こりにくいのもうなずける。別に芸術性などというものを囚人が作るものに求めている訳ではない。形作ればいいだけだ。

この作業は、考えるのに適している。

だから油断はできない。人間は思考さえ残っていれば何をやらかすか分からないからだ。

そう。所長や副所長、秘書は別の次元の存在だと言っていたが、ことおれに関しては少しだけ違うらしい。それすら、予想外だ。けれどいつだって現実は予想外のことしかおきないのだろう。おれにも考える時間はあって、そこから導き出した結論がそれだ。残念なことに。

秘書だ。鉤鼻で、笑えるくらい似あわない派手な服を着こんでいる男は、どうやらおれが殊更に嫌いらしい。理由はおそらく単純なことで、おれに行われる《指導》とは違う所長の──何といえば、いいのだろう。そのことを考えると途端に脂汗が垂れて歯を食いしばりそうになる。あんな、ことが、気にいらないらしい。気にいらないというよりは、ほぼ妬みのそれだ。嫉妬をはらんだ視線には覚えがある。他のだれでもない、おれのものだが。

秘書に言い渡された今日の清掃箇所の広さに思わず眉をひそめそうになった。一人でできるものではないだろう。とても。このアサイラムは広いのだ。係員、囚人、所長も秘書も副所長も厨房係もすべてここで暮らしている。一人だけ例外があるならば、医務室の男だ。

清掃はおれたち係員の中でも人気がない。やりたくない。気持ちはわかる。どこまでいっても平坦な壁、床、清掃したところで綺麗にはならない。だがしなければ汚くはなる。

口答えをするつもりはない。平坦に了承の言葉を告げる。秘書の男はそんなおれの対応も気にいらないようだった。

就寝時間となり、一号房の扉を施錠して十字路の廊下を渡って会堂へ向かう。掃除用具いれから柄が長くて、下に大きな雑巾がついている物をさがす。モップと呼ばれているが、この柄が無かったころは大変だった。その時の記憶、記憶なんて、ふたしかなものをおれはしんじているのか。

探してから気づく。無い。

あるのは雑巾というよりは少しは綺麗な布だけだ。溜息をつきそうになった。ついてもしょうがない事は分かっていたので、飲み込んで、手袋を外して布を水でぬらした。

その日は殆ど眠ることが出来なかった。言うまでもなく、清掃に時間をとられすぎたせいだ。

係員の専用食堂でトレーを持って座ったところまでは覚えているのだが、肩をたたかれるまでの記憶が飛んでいた。眠っていたのかもしれない。というよりは意識をうしなっていたという言い方の方がやはり正しいのかもしれないし、あるいはその瞬間おれはどこにも存在していなかったのかもしれない。

「大丈夫か?」

大勢いる係員の中で、おれに話しかけてくる者などそうそう存在せず、その中でも本当にただの善意からそんなことを言ってくるのはたった一人だ。片眉を下げて、眠そうな眼でこちらをうかがっている。認めると、おれはこの瞳に見つめられると安心してしまう。相互を崩しそうになる。そのくせこの口ときたらどこまでもずる賢く、人に弱みを見せたがらない。

「何がだ」

「何がって……おめぇなあ。……俺だって知ってるよ。しらねぇのは自分のことに必死なあいつぐれぇだろ。もう一週間だろ」

一週間。そうだ。もう一週間ほど異常な広さの清掃を一人でやらされている。おれの手が届かないところは流石に他の係員がやっているのだろうが、三分の一程の面積を一人にやらせるというのは明らかに効率が悪い。ふと腕が痛んで手袋を外して指を見ると爪がはがれかけていた。

別に。辛いなら秘書にじゃなくたっていい。上長にでもいい。報告すればいい。無駄かもしれないが、そうやって屈したようにすればあの秘書の腹のうちはおさまるのかもしれない。この指の爪はいつはがれかけたのだろう。記憶にない。記憶。またそれか。

「心配ない」

「一回医務室にでもいったほうがいいんじゃねぇのか?顔色が悪ぃぜ?」

手をとられて、溜息を吐かれた。はがれかけている爪がぷらぷらと浮いている。暫くすればとれるだろう。それとも、今すぐもう辛いんだと喚けば治っていくだろうか。

おれの手をとった男はその爪を軽く口に含んで、ちらりと一度だけこちらを見たあと、肉と爪を、一気にはがした。

「──っ、ぁ」

痛みが強烈な信号となって脳をがんがんと叩く。呼吸を止めて指から血が垂れていくのを見ていた。動悸が耳のすぐ近くで五月蠅かった。男ははがして口に含んだ爪を自身の手に出して、トレーは俺が片付けといてやるから、医務室にいけよ、と笑った。あの爪はどうなるのだろう、と思ったけれど、何も言わずに指の先を守るためのそれを失った腕をおさえそうになるのを必死でこらえて係員舎を出た。十字路。十字路だ。この十字路はおれは何度も何度も通った。見るたびに吐き気がする。閉鎖房、保護房、それから医務室、か。その奥にも道が続いていることは知っている。だが、それがどうしたというのだ。

扉のたびに係員に声をかけて解錠させる。面倒だ。酷く面倒で、億劫で、今すぐ係員舎の自分にわりあてられている寝台以外何もない部屋に戻って倒れこんでしまいたい。

眠い。

「どうしたんだい?」

白い部屋だった。そして、白い人間だった。

壁や棚、机や椅子、良くわからない何かの装置や、寝台を区切るカーテンにまでありとあらゆる場所に粘着テープや画びょうを用いて紙切れがはってあった。そのどれにも黒いインクで色々な文字がかかれていて、これはメモなのだろうと思った。だが、異常だ。メモというのは、本当に忘れてはいけない大事なことだけを書きのこしておくものだ。おれはそう知っている。これでは何一つとして忘れたくないと願っているようだった。

男は髪もまつ毛も衣服も肌も唇も、何もかもが白い。黒いのは瞳だけだ。あとは黒くて小さな生き物が視界の端にうつるだけだった。気のせいかとも思った。しかしこの白と透明だけで埋め尽くされた部屋では見間違えの可能性の方が少ないのではないだろうか。

回転椅子に腰かけて、指を見せた。これは酷い、と本当にそう思っているのかよく分からない表情で、冷たい水の入った洗面器のようなものを目の前に突き出してきて、手をつけた。途端に鈍くなっていた痛みがずきずきと鮮明に鮮烈に脳をゆさぶって、そのあとに掛けられた消毒液も同様だった。

「剥がれた爪は?」

聞かれて、そういえばあの男はあの爪をどうしたのだろうと思った。

「ああ、無いのならいいんだ。どうしたのかと思ってね。とりあえず、暫くは水仕事などはしない方がいい」

「それは」

莫迦なことを言うな、と自分でも思った。思う?思うというのはどこでなのだろう。

「……命令でしょうか」

案の定男はあきれ果てたようだった。

「いいかい?私は医者として無理をさせない義務があるんだよ。清掃はとくに禁止だ。君の担当は」

「第三作業場と一号房です」

「上申しておくよ。それと」

ガーゼと包帯を巻きながら、男は笑ったようだった。

「恨まれてるかい?」

恨み。憎まれることは慣れている。撤退の命令をしたことで、もともと地に落ちていたおれへの感情は敵意となった。表立ってぶつけてくるものは居ないが、余程腹にすえかねているのだろう。当然だ、とも思う。蘇生可能な同胞すら斬ったのだ。おれが実行を示して、叱咤したから皆がやった。その罪はおれのものだ。

答えないおれに何を思ったのか、男はいつのまにかおれの左肩にのっていた黒くて小さくて、毛むくじゃらの生き物を撫でた。気づかなかった。

ほぼ嫌がらせ、懲罰に近かった清掃の仕事はまわってきていない。医務室の男が連絡をまわしたのだろう。秘書とは最近は会わない。

かわりに、新任の副所長が通りすがりに軽い会釈をした。おれは立ち止まって彼が通り過ぎるのを待つ。新しい。副所長。眼鏡の奥の双眸は細められている。黒髪で。おれはこの男を知っている。書類の上でのみの確認だが、おれはこの男を知っていた。謎がおおい男で、ただ一つ。ある問いにこたえられればいいのだということだけは分かっていた。けれどこの口が開くことはなく、彼を見送った。見送ろうとしていた。ここの廊下は薄暗くて、ぼんやりとした明りしかついておらず、壁は冷え切っていて嫌いだ。本当はいたくない。

「あ、すいません」

唐突に振り向いて、動き出した彫像のようだった。前触れがなさ過ぎて、ほんのわずかに返答が遅れた。

「何か」

副所長は片手で抱えたバインダーをとって、こつこつと指で叩いて思案しているようだった。寧ろおれにはそういうふうに見せている、ようにしか見えなかったが、口には出さない。

「話がしたい囚人がいるんです。呼んできてはもらえませんかね」

「構いませんが」

「あなたは」

瞳を見た。深い深い黒色だった。すべてに意志があるようで、それらが滞りなくひとつの意志を形作る集合体のようだった。気味が悪くて、本当は少しでもはやく立ち去りたかった。明らかにおかしい。黒い瞳は光を反射しない。影を落とさない。これは違う。違うのだ。このアサイラムを形作るものの中で、明らかに異質だ。

「もののためしですがね、あなたには名前はあるんですか?」

期待はしていないですけど。付け加えられた言葉から察するに、他の係員に聞いて一蹴されたあとなのかもしれない。

「私は──」

名前など。

名前などあっても無くても同じとは、言えない。

叫び出したかったから。おれは。そのことを考えるて突き詰めていくとある事実にぶちあたって喉が張り裂けて血の海に沈んでもいいくらいに叫んでしまいたかった。暴れて、何もかもを叩きのめして、すべてを壊してしまいたかった。

何故……?

そこに結果があるわけではなかった。おれは自制した。眠るたびにうなされた。飛びおきて、水のように流れる汗が塩味を伝えた。汗だった。他の液体ではない。

いっそ全部壊してしまおうか。

できる筈のない事を考えて笑った。痛みは癒えることがなく、夢も終わらなかった。痛みではないからだ。喪失だ。おれはおれ自身を喪って、あがいているだけだった。

「月明はあなたが持ちなさい。×××・サンライズ

その名が重い。おれはあの人と同じ名をもつ資格がない。君が言ったのだ。重い、重い、重い。つぶれて、ぺしゃんこにされて、おれは内臓も体内のすべてをぶちまけて潰れてしまいそうだ。

潰れてしまいたい。いっそ。

君にこの重荷を背負わせなかったことを、おれは感謝するべきなのかもしれない。

そんな風に考えてしまうほどあの人は遠い。あの人は太陽だ。おれは太陽になどなれぬ。その影で這うように生きるので精いっぱいだ。

その光さえあれば、生きていけた。何の味もしない草の根をただ噛んでいるだけのような人生で、よかった。

よかったのだ。

この心に君はそれ以上入ってこなかった。あの人がいたから。君を求めることを抑えられた。君の事だけ考える時間を作らなくて済んだ。

あなたはよくやっているわ。嘘だ。おれは駄目だ。やれてなどいない。だからわたしたちは戦える。それも違う。君は強いから、おれが居なくても戦える。寧ろ君を傷つけることしかできないおれでは、いない方がいいのかもしれない。立っていられる。本当に? おれは立っているのだろうか。君は立っているのだろうか。君は立っているのだろう。そこにいるのだろう。君はうなされて居ないだろうか。君は泣いていないだろうか。泣いていた。泣いていて、それでも気丈におれをみた。笑わないでくれ。おれに笑い掛けないでくれ。おれは弱いから、強くなどないから、君だけを見ていたくなる。それじゃあ駄目なのだ。おれはおれ自身を歩かせることが出来ぬ。

それでも見ていたいと思った。

怒りでもいい。

悲しみでもいい。

笑ってくれ。

生きてくれ。

君が生を掴んでいるだけで、おれはいい。おれはそれだけで歩いていける。いけてしまう。

義と団はおれのすべてで、おれそのものだ。けれど君はおれではない。おれにはなりえない。

「あなたらしい言い方ね、×××」

君がおれの名を呼ぶ。だから、忘れてはいけないものだったはずだ。おれは君を挑発して、怒らせた。烈火のごとく怒った君はおれを呼んだ。遮った。肺腑が震えるほど美しかった。

──ヨハン。

「……それは、命令でしょうか」

「おや」

副所長が眼鏡を中指で直して、そのまま指をとめた。じっと見つめられている。居心地が悪い。目は逸らさなかった。

「そういうふうに返されたのは初めてです。あなたは知っているんですね。思い出した、というべきなのかもしれませんが。でも、人に呼ばれないとすぐに忘れてしまうかもしれませんよ。大丈夫ですか? 覚えていますか?」

君が呼んだ。呼ぶんだ。おれのことを。

ヨハン。

ヨハン・サンライズ

そうだ、おれの名前だ。生ある限りその名を背負うことしか出来ぬ、臆病者のおれの名前だ。

「………呼んでくる囚人は」

副所長は溜息はつかなかった。寧ろほほ笑んだようだった。強情ですね、そう言われた気がした。そうだ、おれは偏屈で、意固地で、餓鬼のようだ。──あの男ほどではないかもしれないが。

「428。……アジアンです。」

428。その名前は知っていた。意味するところも知っている。四号房の二十八番目。それが文字上の付属された意味だ。でも、それ以上に知っている。アジアン。

おれは許さないだろう、その名を。おれのすべてを奪ったすべてを、おれは許さない。許せるわけがない。この身のうちを焦がす炎は、憎しみなどとうに超えている。焼いて、指の先まで爛れている。どうしてあの人を失ったこの世界が生きている。つつがなく回り続ける。呼吸が乱れて耳の後ろのあたりがぼんやりと痺れて、目の周りも同様で、鼻の奥がツンとした。胃が痛くなって、おれは自分の身体が心よりも素直なことを知った。おれはおれ自身を分かっていなかった。この体と心は同等にして、全く異なるものだった。そうしてようやく心から溢れて止まらなくなった血液がおれを染めるのだ。許せる訳がない。あり得ないのだ。

一般房の扉を解錠して、鍵束を腰につるし直す。左右に廊下がのびているが、迷わず左に曲がって天井が高い廊下を歩く。鬱陶しくてたまらないざわめきがおれを囲んで、囃し立てた。くれる目の価値もなかった。係員さまがこんな時間に何の用だ?いぶかしんでいる声。おい、夜中にこんな場所にくるなんて──シュトレーハウゼンにでも会いにきたんじゃねぇのか? 下卑て、言っている本人ですら何も考えないではなっているような言葉は、おれにはなんの感慨も与えない。一々制圧する方がよほど面倒だ。ただし、規則は守られなければいけない。ここには緊張感も統制感も何もない。おれは、ピンとはった一本の糸のような空気が好きなのだ。愛していた、と言ってもいい。四番目の房の前で立ち止まった。

428はまだ起きていた。何の粗もない、一つ一つのパーツが美し過ぎて、整い過ぎて、逆に怖くなるような顔立ちはそうそう忘れられるものではない。漆黒の髪も、澄んだ青い瞳も。こわいくらいに綺麗で、逆に何の作為めいたものも無いのが不思議になる。この男は違うな、と思っていた。

「428。副所長が君を呼んでいる」

普段おこりえないような事態であるからして、ここの連中は毎日毎日暇を持て余しているような状態だ。作業している時以外は。それゆえに騒然としかかる。五月蠅い。すべてが五月蠅かった。教導鞭で鉄格子を叩いていたことに気づいたのは発言し終わってからだった。むやみやたらに振りかざすでもない権力だが、悪くはない。悪くはないが、少しだけ自分らしくないかもしれない。

自分とはなんだろう。

身体が痛い。ひりひりする。はれている。斬られている。ばらばらにされている。はがされている。突きたてられている。抉られている。されているのだろうか? 分からない。見えないからだ。おれは侵されている。おれ自身を侵食されて、それは痛みだとか別のもので、おれを突き崩す。自分というものがあるのだとしたら、おれはまさにいま壊れている。食われている。自分を喪っている。

目を瞑れ、と言われた。だから瞑った。そのあと襲ってきた痛みは訳が分からない程辛かった。辛い。口を開けたらみっともなく懇願しそうだった。歯を食いしばって耐えた。崩れそうになる前に優しく引き結んだ唇を冷たくて熱い何かで優しく、遠慮なく嬲られる。咄嗟に口を開く。生き物みたいなそれに悲鳴を上げる前に咥内を犯される。見透かされているのだ。だから、ぎりぎりのところで責め立てる手を止めて急に女のように笑う。慈しむように抱きしめられる。きっと抱きしめられている。かつて感じたことのある温もりを享受して、それでも記憶の中のものとは全く違う温度だった。記憶。記憶とはいつのもので、誰のものだ。分からない。そうしてまた、痛みが襲う。何も考えられなくなる。痛みにだけ縋るようになる。これは愛だと囁かれる。それは嘘だとおれは思う。

「何せ副所長は色々忙しそうでねえ、別に俺は構わないんだよ。何をしてもね。合理的な報告書を提示されりゃあそれを考慮するのが、俺の義務だ。省力及び能率向上のための改革プログラムだなんて、面白い案をだすもんだよ。考えてないことはなかったけどね、俺も。何せ考えることしか出来ない。ここじゃあね、この俺でさえそうだ。ただ、俺たちから動くことだけはあってはならない。頭がいい奴にしか出来ないからね。所長は。お前でもいいのかもしれなかったけど、ヨハァァァァン……お前じゃちょっぴり、サディスティックさが足りないね。俺は持て余しているんだよ、その衝動を。情熱を!お前にもあるだろう。あるはずだろう。解き放ちたい何かしらの衝動。ないとは言わせないよ。そういう目をしている。今は瞑ってるけどね。俺が瞑らせているんだけどねえ。そういうところは従順っていうのは大ぉーきく俺の心を動かしてしまうんだよ。無意識だとしたら相当可愛いものだ。そんなお前のことが、分かるんだよ。俺にはね。お前のことは何でもわかる。お前が知らないお前のことも知っているのさ。何故ならお前は俺の一部で、俺のものだ。ボンクラァーノ秘書よりずっといい。この指は──どうしたんだい、なんて聞かないよ。俺は分かっているからね。お前は頭が良い。分かっている筈だ。目を背けようとしているのかい?それはノーだ。いけない。俺が、許さない。気づいてしまって、そして俺のものになればいい。不合理の中で自分を保つのは大変だろう、ヨハァァァン。俺ならそれすらも、受け入れてやれる」

何を言っているのだろう。いいや、分かっている筈だ。おれは。それすらも見透かされているのだ。熱い息が、そのくせ凍るようにつめたい息が耳元をかすめる。身をよじって逃げようとしたが許されない。そんな自由は係員であり、この男の所有物で一部であるおれには与えられていない。

痛い。

抉られるように胸が痛い。抉られたのだろうか。

違う。

あなたを失った穴だ。あなたがここにいたんだ。

おれには友がいない。居るはずもない。母はおれが生まれて暫くして死んだ。記憶などない。おれを抱え、おれの我がままに付き合い、頭を撫でてくれた兄のようだったあの人も何も言わずに消えてしまった。おれはあの時、誰にも見つからないように泣いたのだ。痛みが涙をうむと初めて知って、そしてこれを最後にしようとどうしてだか決断をした。熱くて炎のようであった父も罠にかかり死んだ。敵二十三人を道連れにして最期まで戦い抜いて目を見開いて死んだ。真っすぐな人だった。おれは父に似なかった。まっすぐでも何でもなく、子供ながらに偏屈で、融通がきかず、理屈屋で、嘘と不実を許せず見抜きなじった。手に終えない子供だ。誰もが忌避する。

それでもあなたは。

あなただけは。

おれを抱えて笑った。

おれを受け止めてくれた。

おれはあなたが居れば生きていられた。あなたが。あなただけが……!

すべてだった。すべてだったのだ。

なのに、どうしてそのすべてを喪っておれは生きているのだろう……? のうのうと。生きることにかじりついているのだ。あるいは、あの日消えた兄のような人が、いたからだろうか。そんなものを自分はずっとひきずっていたのだろうか。懐かしい。慕わしい。本当は、ずっと忘れて居なかった。あの人と同じくらい、自分の中にあった。ずっといた。けれどあなたがたは、いない。仮の意味で、真の意味で、あなたがたはどちらも、いなくなってしまった。兄のような彼の人は、大金を残して消えた。それを元手に砦は作られた。ふたつのいみで、ふたりのひとで、同じくらい大切なものはつまりひとつになった。これしかもうないんだ。

そう、あなたが遺したすべてが残っていたから。守りたかったから。そのためなら何だってできたから。今はもう違う道のあなたののこしたものでもあるから。

一時の敗北に打ちのめされるようなプライドなどおれには無い。勝つ為なら何だってしよう。あなたの名誉をそれでまた守れるならば。あなたが遺し、愛したすべてをおれが守ろう。この身などいくらでも捧げていい。捧げてしまいたい。けれど、そう。どうして、どうしてこの痛みに耐えられる……?

いっそ誰かおれを殺してくれないか。この胸を切り開いてくれないか。

所長はきっとそんなおれを分かっているのだ。だから執拗に攻撃する。責める。おれがもう何も考えられなくなるまで手を止めない。意識を失うまで嬲られる。きっとこの胸を切り開いている。お前だからこうしてあげるんだよ。お前だから。俺はお前を愛しているからねえ。他の奴らにはしないよ。ここまではね。俺は、お前が、とてもとても気に入っているんだよ。分かってるだろう?

分からない。分かりたくもない。

目を開けろと言われた。瞼がやけに億劫だった。瞼だけではない、全身だ。ありとあらゆる場所が痛む。顔だけはいつも何もされない。されるとしてもその舌でねぶられるくらいだ。だけどおれには自分の顔など良くわからない。散々言われることから想像するだに、余程特徴がない顔をしているのだろう。ただし目は好きだといわれる。誰になどと言うまでもない。目の前の男以外にそんなことを言う人間はいない。眼球を舐められると反射的に目の奥から涙があふれる。泣きたくなどないのに、その時のおれはきっと泣いているのだろう。腕も、膝も、胸も、背中も、太腿も、足の先まで痛い。指にはってあったガーゼと包帯がとれている。指の先が真赤になっていた。ああ。仕事がある。まだ。係員の仕事が。

「仕事熱心もいいけどね、無理はしちゃいけないよ、ヨハァァァン……」

うわべだけの労りなど要らないんだ。気づかうようなふりもいいんだ。不毛だから。琺瑠。義理立てしなくてもいい。おれはそれを受け入れられない、そういう人間だから。傷つけあうだけだ。君を傷つけたくはないんだ。無理だと分かっていても。人は生きている限り傷つけあうことが常だと知っていても。

「でも仕事を怠るのはもっと良くないねえ。お前を見習ってほしいものだよ。揺れてるんだろうね」

蛇のような身体で、白くて艶めかしい、と言ってもいいだろう素肌に直接赤い上着を羽織って、白地に黒の斑点がちりばめられた細いズボンをはいている。身体はしっかりとしているくせに、腰だけが不気味なほど細い。変わらない。いつもの格好だ。顔は見えない。暗い。

「──死神を呼んでおいで。いつでもいい」

頭をなでられた。途方もなく不愉快で、鳥肌が立った。吐きそうな口をおさえて返事をした。

おれは知っているのだ、最早。

そうと知っていても、今はまだ、止まるわけにはゆかないのだ。

「よう」

半眼で、心底眠そうな目を瞬かせて、ぼさぼさの黒髪とだらしなく着崩した係員服で、憎めない、そう、憎める筈などない愛きょうのある顔で手を掲げて挨拶された。

「またつまんねぇ顔してんなぁ」

人の顔を真っすぐに見て、ぬけぬけと失礼なことを口走る。そのくせやたらと人に好かれるその性質は、生来のものなのだろう。おれも。おれも──嫌いではない。

なかった。

「で、何の用だよ」

問われるのは当然のことである。ここは、この係員にあてがわれている部屋だ。係員舎は広いが、それほど部屋自体が広いわけではない。おれたちが部屋でするべきことなど無いからだ。存在しえない。睡眠をとるための寝台と、今にも壊れそうだが、きっと壊れることはない椅子があって、君は椅子に逆に座って背もたれに肘をかけている。

「君は……」

喉の奥がつまりそうだった。感覚が欲しい。おれがここにいるという確証に満ちたそれを。

けれどそんなのはある筈がない。

確かめたいことがあるんだ。だからここにきた。

でもこんなことを口にしなくても、おれは覚えてるんだ。

君は。

ここにしかいないんだ。

もう。

誰もが君を愛した。

君は愛されていた。接触した人間はことごとく君に惹かれるだろう。君は信頼にたる人物だ。そう思わせる何かがあって、何気ない所作に温かみが満ちていた。こんなおれにすら、君は臆せず話しかけた。おれは拒絶した。君たちの絆に入れるわけがなかったし、入ってもいいものではなかった。あれは君たちだけのものだった。

鐘が鳴る。大事なものを喪ったとき、同志を喪ったとき、もっと大事なものをうしなったとき、それでも平等に鐘が鳴る。白菊の花弁が暗い空に散る。黙祷。おれは目を閉じたが、それでも何も浮かんでこなかった。死者に対する悼みも、伝えたかった言葉も、おれにはなかった。伝えるべき言葉など持っていなかった。

血の絆が半分になった。もともと薄かったおれと君たちとの関係は、だからこそ深くかかわらざるを得なかった。

おれは愚かにもこう思っていたんだ。君たちがずっと一緒にいられますように、と。こじれたっていい。それでも君たちは奇跡のように結ばれたんだ。

君たちは守られて、慈しまれて、こんな街にふさわしくない程の奇跡でもって生きていくべきだった。

ここじゃないどこかで。

けれど君たちは好きだったのだろう。あの人だけではない。あの男が。ずっと君たちを守ってきたあの男が。険呑な目つきで殺意だけを孕ませたあの男が。剣を抱えていないと安心できぬ、あの莫迦が。

駄々をこねる餓鬼のようだった。

「俺にはできん」

そんなことを言う理由が分からない。だって、どう考えたってこの男にしか出来ないのだ。とくにおれにはできる筈がない。あの人を喪ったときに、痛みと悲しみと一緒に大事な何かを殺したおれを、同じ人間だと誰が思うだろう。思えるわけがないだろう。そんな奴の下で剣を振るいたいなどと、誰が思う……?

羅叉。君は死神だ。けれど、人間だ。誰かを守るために剣をとった、一人の人間なのだ。

──例えそれが、途中でどのような方向にねじ曲がろうと。

「なぜ、俺だ。貴様が駄目なら、琺瑠にでもやらせればいい」

彼女は駄目だ。駄目なんだ。理屈でもっても駄目だし、おれの、そう、あるかないか分からないかくらいの薄っぺらい感情論でも、駄目なのだ。

おれは君に重荷を背負わせようとしている。ずっと戦ってきて、傷ついて、今も傷つきつづけている君を無理やり立たせようとしている。

だけど重荷を背負うのは君だけじゃない。安心してくれ、などとは口が裂けても言えぬ。ただこのおれの生ある限り、おれは君とともに歩くだろう。長い付き合いになるだろう。おれたちでは無理だと何度もくじけるだろう。心折れること何万回だろう。生きている限り続くのかもしれない痛みがおれたちを襲うだろう。道化のように踊るのだろう。道化でしかありえないのだろう。大事なすべてを喪ってなお無理に立って見せるおれたちは見世物小屋の中にいるあれらと何も変わらない。踊って、踊って、この足が動かなくなり、立つこともままならなくなり、その両腕すら捧げて、血の海に沈んでも、それでもおれは生きるだろう。そのさまを嗤ってくれ。

おれは歩くんだ。

道が無くてもいい。無いなら切り開けばいい。

足が折れたっていい。痛みはおれを奮い立たせるだろう。

おいていかれてもいい。君たちの後ろをおれは守るだろう。

先にいってしまってもいい。君たちが少しでも危険にさらされないように、おれは犠牲になろう。

だから、おれは歩いていこうと。

そう思うんだ。それだけが真実なんだ。

きっと。

きっとおれも、そう思っている筈だ。

「君の名前は何だ?」

少しだけ自棄になって、笑った。

君はあの愛きょうのある表情を動かさないまま、腰のホルダーから教導鞭をとった。

大剣を軽々と扱って見せる君の体躯は恵まれている。おれは君をいつも見上げなければいけない程だ。体格があるというのは、それだけで有利なのだ。けれど、あの男はどうだろう。恰幅が良い方ではない。それでも君たちを守ろうとしたのだ。その君たちを喪った痛みが、あの男にとってどれほどの喪失であるか、おれには分からない。おれは誰かと、腹に何か抱えることなく話した記憶が殆どない。自分の行動についてどう思っているか、説明したこともない。誰かと分かりあおうとしたこともない。

突きだされた教導鞭を半身をひいてかわした。ホルダーには手も触れなかった。殴りかかろうとした。突き出したそれで君はなぎはらうようにおれを殴った。直撃した。膝が腹に入った。一度ではない。教導鞭で頭を殴られた。目が一瞬見えなくなった。おれは何かに突き動かされるように上から降ってくる教導鞭を掴んだ。掌が痛い。ありたっけの力で突き飛ばして、蹴りをいれた。どろりとしたものが額からおちてきて、舌でなめた。鉄の味がした。

君の後ろに弧を描いてまわりこんで、首を掴んだ。

これはおれの物語じゃない。

君の物語でも、あの男の物語でも、数字の6を名乗るあの男の物語でもない。

それでも力をいれようとして躊躇った。その隙をついて足を払われた。押し倒される。何度も殴られて、息を荒くした君はおれの首をつかんだ。

「なぁヨハン」

「なんだ」

「お前も来ねぇか? 俺たち今からちょっとそこまで遊びにいくんだよ」

「遊びに……?」

「すぐそこ」

君は中庭を指差して、それからランチボックスを抱えた腕をおれに向けた。すぐそこにも程があるだろう。呆れて目じりが下がった。ほら、と再三促されると窓から釈拿と琺瑠が歩いて中庭で笑っているのが見えた。今から羅叉をむかえにいくんだよ。そう言って君は笑う。

「あの男が付き合うものかね」

「つき合わせるんだよ」

大丈夫だって。君は確信があるようだった。

おれも付き合おうか。どうせ眺めているだけだろうが、それでもいい。太陽の下で君たちが笑っているのを見られれば、それだけでいい。

あの男は不機嫌そうに剣を抱えて座っているのだろう。それでも、釈拿と焔が絡んで行けば少しは話す。人間味が出るのだ。死神だなんて言われたって、やっぱり違うものだ。彼女は少しだけ離れてそれを見ているのだろう。おれは彼女の背中に手をあてたい気持ちをこらえて、ぽつりと話しかける。彼女がそれで笑ってくれれば最高だ。

「ヨハン。でも、そんな未来はもうないのよ」

悲しそうに、そんなことを言わせたかったわけじゃないんだ。

「でも、夢だっていいじゃねぇか」

「そうだよ! ねぇ羅叉、食べないの?」

ランチボックスにはさまざまなものが入っていて、それらはすべて夢の欠片だ。一つ口に含むたびに夢は体におちていって、よりいっそう目覚めたくなくなる。

これが、おれの夢ならば。

違うんだ。

違うんだよ。

右手をのばして君の顎を撫でた。無精ひげはだらしないから剃れと何度も言ったのにな。君は最期まで聞かないままだった。別に、本音を言えばおれも君にこのだらしない髭は似あってると思っていたよ。剃ると若くなりすぎて、下のやつらにからかわれんだよ。君はぼやいていたし、実際その通りだ。呼吸が出来ない。君は笑っているのだろう。左手で腰のホルダーから教導鞭をとって、君の笑顔をたたき割った。倒れた君の胸元から何か落ちた。爪だった。何だ、持っていたのか。莫迦だな。おれは知っているのに。君が、君は。

「…………もういないんだよ」

血にまみれた教導鞭をもてあそんだ。君は死んだんだ。蘇生式にかかれないように死んでしまったんだ。そして今おれが殺したんだ。でもきっと君はおれがここから出ていけばまたここで生きていくのだろう。

夢の持ち主が目を覚まさない限りは。

428。アジアン。貴様はここがいいと思うのか。ここでやり直していきたいと思うのだろうか。おれならば御免だ。きっと、おれだって御免だ。確かに痛みはとても大きくて、胸をかきむしって、あばらの下のその奥まで手を突っ込んで埋めたいくらいにぽっかりとおれたちに穴をあけてるだろう。喪ったものはもう戻らない。分かりきった事実が覆されるのならば、その方がいいと思うのか。おれは思わない。あの人は死んだんだ。おれは永遠にあの人を喪って、それだけが絶対無二の覆せぬ真実だ。違うか。違わないだろう。釈拿も焔も喪った。沢山の同志を常に喪い続けてきた。義のための犠牲だと一言で終わらせるわけにはいかない、命だった。すべての命に命は関わっていて、喪った命は生きているおれたちの命にも影響を与えていく。生きているということが、重いんだ。だけどおれは生きていて、それこそが現実だ。きっとおれは足掻くのだろう。いつかその時がきても、目を閉じないで前を向いているのだろう。弱いからこそ強くありたいと願うのだろう。これ以上喪いたくないから戦うのだろう。そのために喪うと分かっていてもやめるわけにはいかぬ。息をすることは足を動かし続けることと同じだ。足を動かすことはこの腕でつかんだものをはなさぬ事と同じだ。手放せぬことはおれが生きていることと同じだ。生きているおれは、ただおれの愛するすべてを守るために。おれのすべてを、おれだけのすべてを飲み下して。

君よ。おれよ。例え誰にも愛されなくてもいい愛せ例えすべてを喪ってもいいおれだけは立ち上がれおれ自身をうしなってもいい君だけは生きてくれおれだけを地獄の業火で焼いてくれそれでも君は笑ってくれおれだけを誰も知らない場所へ埋めてくれないかあの人のいない世界でいきるおれを嗤ってくれないか。

あなたを喪う前のおれは、あなただけがすべてだった。

あなたを喪ったおれは、もうおれではあらず、それでも足をとめるわけにはいかず、あの男と歩く道を選んだ。

莫迦で、大嫌いだ。番人として一振りの剣として有能でも、それだけでは組織は立ち行かないというのに好き放題だ。胃が痛くなる。あんな男。一度くらい懲りてしまえ。莫迦が。本当に莫迦だ。現実の貴様とおなじく、ここでの貴様も莫迦だ。心底。まだ分かっていないんだろう。少しは考えろ。考えれば分かることではないか。ここは現実ではない。そして、おれたちは夢の中の住人なのだ。夢の中の住人になったことがあっただろうか。夢を見る側は常に主体性のある視点からのみ脳内で構築された情報を受け取って、あるいはままならない夢の中で足掻くのだろう。ならばおれはどうだ。あの男はどうだ。足掻いてはいるが、おれたちは違うのだ。おれたちではありえない。おれは常にもたらされる吐き気と闘いながら、それでも夢の住人であり続ける。道化を演じ続ける。おれはおれでは無いからだ。あの莫迦は分かっているまい。あるいは、分からない方が幸せなのかもしれないが。けれど莫迦なのに、妙に頭のキれるあの男は気づくのだろう。おれは数字の6のお気に入りの玩具であり続けるだろう。哀れな秘書はねたみ続ける。目の前で血の海に頭を沈めて白目をむいて、まちがいなく死んでいる男は明日には何食わぬ顔であの莫迦の相談に乗っているのかもしれない。428。お前はどうだ。夢の中に溺れてしまいたいと願うのだろうか。

おれは思わない。たとい我が身が次の瞬間には泡になってしまうとしても、おれはそれでもいい。おれは生きているから。おれが消えても、おれは生きて、あがいて、足がおれても、腕を斬られても、肉を抉られても、犯されても、何もかもを喪っても、おれは生きるだろう。その強さを、あるいは弱さかもしれないそれをおれが持っていると信じているのは愚かだろうか。おれは諦めが悪いんだ。悪くて、悪過ぎて、どうしようもない。

びちゃり。水音が響いた。白目をむいていた焔が、二・三度瞬きをしておれをみた。

いつものように笑う焔に、おれも笑みを返した。笑う事などもう忘れたかもしれない、夢じゃないおれよ。お前もいつか笑いを思い出すだろう。自然と笑える日がくるだろう。だから諦めるな。諦めてくれるな。ああ──言われなくても、か。

それは良かった。

end.